映画『幸せなひとりぼっち』

『幸せなひとりぼっち』

原題の直訳は『オーヴェという男』。

タイトルから推測されるような、「ひとりぼっち」を肯定する話ではない。オーヴェという男、妻には先立たれているけれど、ひとりぼっちじゃないよ!という話である。

若い感じの奥さんの写真が飾られていたので、若い頃に奥さん亡くして数十年一人で生きてきたのかなと思ったら、奥さん亡くしたの半年前だし。お子さんいないとはいえ素敵な奥さんと数十年しあわせに暮らして、じゅうぶん素敵な人生じゃないですか、、(こちとら結婚できるかどうかも不明なんだぜ!?)

 

亡き妻を想うことと、秩序を守ることしか頭にない偏屈な爺さん、オーヴェ。仕事も失って、もうこの世に未練はない、早く妻に会いに行こうと自殺を試みる。しかしそのたび邪魔が入るのです。毎回ほんといいタイミングで自殺は阻まれ、もはやコントの色を帯びてくる。

オーヴェの生と死の狭間に、彼の人生の回想が挿入され、彼がどんな人物なのかが明らかになってくる。不器用で、正義感が強くて。厳しい運命に翻弄されながらも、運命の出逢いがあって。

だんだんと彼の性格は閉じていき、怒りっぽくて頑固なオーヴェの性格が形成されていく。妻を亡くして以来はそれがさらに強固に。しかし生来の人の好さから、近所の人から声をかけられればノーとは言えず、文句を言いながらも頼まれれば何かを直していく。直す対象は近所の人の所持品だったりするのだが、直しているのは「モノ」そのものだけではないのだろう。だんだんとオーヴェも、近所の住人も、変わっていく。

 

ええ、ええ、泣きました。

しっかり泣いた、というかめちゃめちゃ泣いた。何をそんなに泣いたんだろう?というくらい、泣いた。オーヴェがリストラされる冒頭あたりで既に泣いてました。

生きるということは何かを失うこと。大事なものを失いつづけ、最後には自分で自分の命を失わせようとしたオーヴェが、周囲の人の物を修復する過程でまた大事なものを手に入れてゆく。失う、手にいれる、人生はその繰り返しなのかもしれない。

 

私は今はひとりぼっちではあるけれど、何も失ってはいない。

何かを失う時のことを想像するとそれだけで苦しくなる。映画などのフィクションでその痛みを摂取しつづけていれば、現実にそれが襲ってきた時に少しは耐性がついていたりするのだろうか?

実際に耐えがたい痛みに襲われたとしても、それに固執せず、新たなものを手にいれることができたらと思う。この映画のように。