こころの性別って?
性自認の話をするなら派遣先の教育でLGBTについての教育があって人には体の性別と心の性別と好きになる性別の3つがあるって話を聞いて目から鱗が落ちた気がしたんだよね
— モロあき (@mo6_ack) 2017年1月6日
このツイートを読んでなるほどって思ったけど。
・からだの性別→わかる
・好きになる性別→わかる
・こころの性別→??
私には、この「こころの性別」がよく分からない。
何をもって、じぶんの「こころの性別」を判断するのだろう。「好きになる性別」は別にあるのだから、「女が好きだから」自分のこころは男、とはいえない。では、化粧をするのやスカートを履くのが好きだったら、こころは女?社会的に女がするとされている行為に惹かれているとしても、それを男がしてならないわけではない。べつに男として化粧が好きでもスカートを履くのが好きでもいいんじゃないだろうか。
2015年11月に、英国の研究結果として、こんな記事が出ている。
男女の脳に、性差は存在しないというのだ。
男女の差は脳ではなくて肉体に現れる。(脳が男女で同じとはいえ、むろんホルモンを司る分野の働きはちがうのだろうけれど。)
では、「こころの性別」はどこにあるのだろう?
脳が男女おなじだとしたら、あるのはたぶん「社会的に要請される性別」への違和感だ。社会的に女として求められる事柄に違和感がある、ということだ。でもこれは先にも述べたように、だからといってじぶんの「こころの性別」を決める要素にはならないのでは?というのが私の意見だ。「女」であっても、社会的に求められることに違和感がある人は少なくないだろう。でもだからといってじぶんのこころが男だと言うだろうか?
性別によって社会的に求められることが自分にしっくりくるかどうかを判断基準に、じぶんのこころの性別や見た目の性別を変える人はいるだろう。それは咎められることではない。ただ、もう少し「社会的な性別」から自由になることができたら、「こころの性別」もなくなるのではないだろうかと私はおもう。